ビジネススクールというアカデミア
私は生来の負けず嫌いから「叩き上げ+独学」の過程を通して、生きた知識を会得し地力をつけてきた自負はあったものの、結局世間は分かりやすい経歴を重んじる傾向があるんだと思い知り、ただそこで片意地を張るより「逆手に取ってやろう」とMBAを取得しました。
そんな妙に冷めた割り切りの中、別に大学院で新しい知識が手に入る期待はなかったのですが、図らずもたくさんの発見をすることとなりました。その中でもとりわけ新鮮だったのが “アカデミア”を垣間見た体験なのですが、特に論文引用のお作法の厳格さには閉口でした。
先行研究(何年に誰が何を言った)を数珠つなぎにして自身のオリジナル理論を展開する様は<特許戦争>さながらの印象ですが、いわゆる<先行特許調査>が学者の重要なタスクの一つであることも頷けます(というか、その作業自体「研究」なんでしょうが…)
※特許になぞらえて考えるとしっくりきたので、以下メタファーを<>で括っています。
つまり「論文引用」は、他人様の学説に対してさらに思考を発展させたり、反論したりして独自の論点を確立するため重要な作業なのですが<先使用権>あたりまで話が及ぶと、特に人文学などにおいて正直何が“オリジナル”なのか線引きが非常に難しいと思います。
盗作という罪、新しさの価値
小沢健二氏の『愛し愛されて生きるのさ』が発表されたとき、ゴダイゴの『銀河鉄道999』と酷似(というかそのまま)だったことに衝撃を受け、しかもその事が何の問題にもならず普通に大ヒット。当時「そんなモンなのか…」と釈然としない気持ちに苛まれました。
一方、アカデミアで展開される研究の意義について「本当にそんなこと研究して意味があるの?」「結局何かの役に立つの?」「“新し”ければ(先行研究と重複なければ)何でもいいの?」…少なからずそういった違和感がありました。
往々にして修士や博士の上級学位を取得すること自体が目的化され、結果その学績に“実用的な応用”への発展性が乏しいことが多い。学位審査にいわゆる<新規性><進歩性><先願>という要素に加え、<産業上の利用可能性>のような基準があってもいいと思います。
現実的実用性と独自性のハザマにあって、“新しさ”の価値は多面性を持つと思います。小沢氏の『愛し愛されて生きるのさ』は(メロディとしては)新しくないけど、(感性として)新しかったわけで、当時そこには確かな付加価値が存在したのではないでしょうか。
“オリジナル”の定義とその真価
「盗作してもいい」「<新規性>に意味がない」とは言いませんが、それは必ずしも万能な価値基準ではないし、“オリジナル”の定義は一面的に語れるものでもないと思います。
私は若い頃ショートトラックという競技スポーツに没頭していました。速さを追求するためにはスケート靴のチューニングがかなり重要になるのですが、そのノウハウは人それぞれ。また滑走フォームなども人それぞれなのですが、各々自分の技術には自負がありました。
とはいえ、スケート靴の構造も滑り方もそこまで違いが出ないため、パクったパクられたの議論にも嫌気して、何とか自分の“オリジナル”を追求したものですが、ある時「他人の技術も一旦自分の中で消化して使いこなせたら、自分の技術になるんだよ」と忠言されました。
少し強引というか、ただの気休めにも聞こえますが、同時に“オリジナル”であることの価値なんて、実はその程度なのかも知れないな…と妙に納得しました。常に新しいことを発明し続ける必要はない、既存のアイデアの最も効果的な使い方を編み出すことが等しく重要。
基礎研究だけではなく、応用研究においても“オリジナル性”を打ち出すことは十分に可能だということだと改めて感じました!